無門ストーリー

新しい無門庵

無門庵ができたのは1940年ごろ。
福島県の炭坑経営者だった先々代、小林実が、石炭置き場として所有していた土地の一角に、
旅館・無門庵を立てたのが始まりでした。
新聞配達の少年から裸一貫で炭坑経営者になった先々代は、道楽好きだが、気骨のある明治男で、
無門庵もほんの気まぐれからつくったと語られています。
無門庵の名は先々代の俳号「無門」から名付けられ、設立当時はあたり一面が雑木林で、
「タヌキかムジナしか泊まりに来ない」と世間の人に、嘲笑れたそうです。

しかし太平洋戦争が始まり、飛行場などを抱える軍都・立川の重要性が増すとともに、
無門庵は陸軍将校の専用旅館として隆盛してゆくことになります。
戦局は次第に悪化の一途をたどり、終戦が近くなると無門庵の客は、
立川飛行場からの出撃命令を待つ少年特攻隊兵にとって代わられることになってきました。
少年兵たちが旅館の大広間に集まっては、
小さな戦闘機の模型で、将校から「敵艦にどう突っ込むかの心得」を教えられておりました。
まだ、あどけなさの残る十六歳ぐらいの少年兵たちは、身じろぎもせず一心に耳を傾けていたと語られています。

「最後の宿は家族にしらせるな」という軍の通達は厳しく、訪れる人もおりませんでした。
翌日、往路だけの燃料を積んだ戦闘機は、必ず無門庵の上空で大きく三回旋回し、飛び立ったそうです。
旅館の者はみな中庭に出て、白い布をつけたほうきを力一杯振って、これに応えたと伝えられています。

新しい無門庵新しい無門庵

そして戦後、無門庵は一転して米軍兵の宿泊所となります。
芸者をあげての大パーティーが繰り広げられ、フライドチキンなど見たこともないごちそうが並んだそうです。
残ったごちそうをつまみ食いした、まだ幼かった先代は「世の中にこんなにおいしいものがあるのか」と驚いたと語っています。
岩ぶろもある和風旅館は米軍兵にも大好評で、「ここを爆撃しなくてよかった」と冗談が飛び交ったそうです。
中には、チョコレートやガム、たばこで、宿泊料を払う米軍兵もいたとも聞きます。
米軍立川基地の拡張をめぐり、住民らと警官隊が衝突を繰り広げた55〜58年の「砂川闘争」のころは、
報道陣が大挙して押しかけ、無門庵を取材拠点としてニュースを発信し続けていました。
大洋ホエールズ二軍の定宿、地元の音楽大学などの合宿所、
無門庵は、歴史と共に様々な顔を持ちながら、立川の名物旅館として名をはせ、
87年に、無門庵は旅館としての幕を閉じることになりました。

その後、なじみ客らの往時を惜しむ声もあって、
閉館5年後の91年、旧本館を残し、懐石料理店として生まれ変わり復活をはたすことになりました。
敷地内には先々代が所蔵していた樋口一葉の「たけくらべ」の直筆原稿などが展示されたギャラリー、茶室、バーなどが点在し
毎月のように展覧会や音楽会が開かれております。

戦中から戦後、軍都から商都へ・・・立川が変わるたびに客層も変化し、
時代に応じ、無門庵も形を変え、皆様に喜んでいただけることをもっとうに進化してまいります。
ただの料理店としてだけではなく、先々代、先代と好んだ「粋」な文化の発信源になりたいと・・・

無門庵ストーリー おもてなしの心無門庵ストーリー 始まりは旅館無門庵ストーリー 新しい無門庵
樋口一葉について